コミュニケーションは命令されて取るものではない

セミナーやイベントのアイスブレイクで行われる、フリートークが大嫌いだ。
「隣の人とお話ししてみましょう」

はあ?
どこの誰かも、何をしている人かも分からない人と、何をどう話せと?

せめて、名前、活動内容(職業、担当業務)、好きなものが提示されていれば、話を展開させることはできる。
でも、それもなく、いきなりフリートークしましょうというのは、乱暴だ。

そもそも、フリートークでコミュニケーション力が高まるのか?
そもそも、コミュニケーション能力ってなんだ?
なにをもって、その能力の有無を判断するのか?
小学生の時からずっと疑問だった。

「お前はコミュニケーション能力がない」とことあるごとに言われた。
必ず聞き返した。
「では、あなたの仰るコミュニケーション能力とはどのようなものなのですか?」と。

誰一人、答えられなかった。
言葉に詰まって、「ええと・・・」とだけ。
喉を切り裂きたくなったよ。

何だ、わかってないじゃないか。
結局のところ、あんたの言うコミュニケーション能力とは、「俺にとって都合よく動いてくれ」と言うことなのですね。

そう返すと、相手は絶句するか、逆ギレした。
逆ギレするって、図星だろ。
そのような相手とは金輪際関わりたくない。

「○さんとお話ししてみたら」と言われるのが嫌いだ。
○さんに罪はなくても、泥人形としか思えなくなる。
まだ見てすらいないのに。
2014年以前までは一度でもそう言われると、発言者はもちろん、紹介された人も憎んでいた。

わかったことがある。

お話ししてみたらという言葉に、命令が含まれていると受け止めている。

わたしは人と話せないのではない。
話したくないから話さなかった。
だのに、コミュニケーションだの、話しに行けだの、命令されたから、人を憎む癖がついた。

コミュニケーションは命令されて取るものか?
違うだろう。

興味がない相手に、さも興味があるように話すことがコミュニケーションか?
違うだろう。

相手は見抜いているよ。
「こいつ、俺に興味ねーだろ」って。

興味があれば、話したいと思えば、自ら話します。
相手に話しかけます。
それを「お話しして来なさい」なんて命令するから、人と話すのが嫌になった。

今は、人と話すことが楽しい。
でも、2014年5月以前に出会った人に対しては、憎しみの感情しかない。
どうしても、「無理やり話せと言って来た泥人形だ」としか思えない。
「あの人とお話ししてきなさい」なんて命令するから人と話すことが嫌いになるんだ。

人と話してほしかったら、コミュニケーションの楽しさを伝えればいい。
コミュニケーションは命令されて取るものではないのだから。

コミュニケーションに命令されるのが大嫌いな道景写真家
夏澄

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