暑寒別川@増毛町-1(2016秋)

「暑寒別川でサケの遡上が見られる」と聞き、暑寒別(しょかんべつ)川へ。
増毛町から徒歩約15分、札幌・浜益方面へと向かいました。

橋の上からもサケの姿が見られました。
秋の海、絶景です。

撮影日:2016/9/21

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にしん街道。
増毛のさらに北にある、小平(おびら)町にも鰊街道がありました。
オロロンラインは鰊(ニシン)で栄えた町が多いのです。
このような説明がありました。

鰊街道

増毛町の「にしん漁」のはじまりは、宝永三年(1706)松前藩 下国氏がマシケ領を知行していた頃とされています。

江戸中期(1750年頃)松前の承認村山伝兵衛がマシケ場所を請け負っていた頃には、松前地方における「にしん漁」が不漁となり、石狩場所までの追鰊が許され、この頃の「にしん」は身欠き鰊や数の子として食用に供されていたはいたものの僅かで、農業への肥料として主に使用され、内地からの需要も増しつつあったため、〆粕・胴鰊として生産されていました。

安政年間(1854~1860)では、極端な不漁が続いたため「にしん」を求めて北上が続き、明治に入り「にしん漁」も増毛・留萌・天売などに漁場の中心が移ってきました。また、漁業技術も刺し網から建網(角網)へ、船も磯船から大型船へと改良され、「にしん漁」も飛躍的に発展しました。

往時の資料から大正中期~昭和二十年代にかけての増毛の「にしん」漁獲高は全国一位を誇っていましたが、昭和二十八年を境に「にしん」漁獲高が激減し、昭和三十三年を最後に増毛の「にしん漁」の隆盛も終焉を迎えました。

この標柱は「にしん」で栄えた日本海沿岸地域が歴史と伝統を後世に引き継ぎ、地域の活性化に繋げる証として設置したものであります。

設置年月 平成二十三年九月吉日

設置者 増毛町・増毛町観光協会

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大砲の由来が紹介されています。

秋田藩元陣屋第二台場跡

昭和四十五年、国道二三一号船の道路整備の際に大砲の台座が出土し、この地に台場があったことが確認された。秋田藩は安政四年(一八五七)北方警備を命じられ、現在の永寿町四丁目に元陣屋を設営した。陣屋の他には二か所に台場を設け、陣屋東側に設置されたのが第一台場、現在地が第二台場となった。第二台場には三百目の大筒が二門整備されていた。

但し、異国船が現れた際にも函館奉行所からは「決してこちらから攻撃してはならない」と通達されており、なによりも穏便が第一とされていた。

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